個性的な先生はいたし、ちょっと尊敬することはできないな、と思う先生も、正直言ってがっかりさせられた先生もいた。でもそんな彼らと共に過ごしたこれまでに通ったどの学校も、総じて楽しかったという記憶が残っている。
「教師たちの中にも、良い先生となってくれた人もいるよ」と言っても、それは特別な人が特別な体験として、たまたま経験した「運のよいこと」だと解釈していることが伝わってくる。
わたしの子供時代のように、早熟で自立心は旺盛でも、救いがたいほど脳天気な性格だった子供は、大体誰と遭遇してもあまり気にならないだろうし、敏感で繊細な子供は、大人の欺瞞や嘘にいち早く気がついて、きっと深く傷ついたり、不信感を持ったりしただろう。
また、物事を、どっちの面からまず見る性格か、というのもあるんだろうなと思う。何かが起こったとき、自分にとってポジティブな面から見るか、ネガティブな面から見るか。それのどちらがより深く印象に残る性格なのかという違いも。
どちらの性格が良い悪いという話ではもちろんなくて、どんな性格の子供たちにも、それぞれの性格だからこそ受け取れるギフトはちゃんと用意されていると思う。
わたしが願うのは、子供のころ、学校で良い教師に恵まれなかったし、良い教師というものが存在するなんてやっぱり信じられない、という大人が、今や未来の日常生活の中で、よい先生たちに出会えたらいいなということ。
何かの専門家として知恵や技術を教えてくれる先生もいれば、教えてくれているつもりはないだろうけれど、体全体で何かを教えてくれている人もいる。
「教師」って、本当にいろんな姿かたちをしている。
彼らはたとえば繁華街の飲み屋にもいたし、地下鉄のホームにいたおばあさんであったこともあったし、一時期一緒に楽しく過ごした友人であったりもした。よその家の飼い猫や、早朝に現れた一匹の蜘蛛であったこともあった。
自分が解放されたかったある辛いことからついに解放されたときの、一番の尽力者が「苦手だった人」や「名前以外のことはよく知らない人」だったこともあった。
学校という場所では良い教師に恵まれなかったとしても、別のどこかで良い教師に出会える可能性はごろごろある。
そういう意味では、わたしなんか年がら年中、教師としか会っていないみたいなものだ。「よくこんなに教わることがあるな」というくらい、教えてもらうことばかりの毎日だ。
ツイッターの文面に戻るけれど、「良い教師や良い大人なんていない」って思っている子供に対して、「不幸にして君は出会ってないだけで、どこかにいるに違いない」って言える大人が増えることが、沢山の子供の心を助けることになるんだろうなと思う。「そうだ、いないよ」と言われたら「もうおしまい」という気持ちになるけれど、「まだ出会っていないだけなんだ」と言われれば希望は残る。
そしてそれは嘘じゃない。
「良い教師」はこの世界に絶対にいるもの。
「不幸にして君は出会ってないだけで、どこかにいるに違いない」と子供に言った大人こそが、その子供にとっての最初の「良い教師」になるかもしれないし。
わたしの古くからの友人にも、教育者として日々子供たちに接している人たちがいる。
ツイッターを読んで、彼らのことを思い出した。
彼らも人間だし、教師という仕事にも大変な側面は沢山あるだろう。それでもわたしが知っている彼らはきっと、子供の心にきちんと寄り添って、つとめを果たしているんだろうなと思う。彼らの子供時代を見ているから、すごく安心してそう思っている。
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