夏みたい


気になっていた、庭の草刈りをした。
それにしても暑い日だった! よく晴れていたし、気温も高かった。
5月なのに夏みたいな日だった。

草刈り機でブーンと刈ってもらった草を、集めて捨てるのがわたしの仕事。これまでずっと、写真左のミニ熊手を使っていたのだけれど、「熊手には大きいのもあって、使いやすいみたいだよ」と教えてもらって、右側にある大きいのを買った。
なるほど使いやすい。腰をかがめなくて良いのが最大の利点。
しばらく雨が続いたあとに、晴天と高温の日が続いたので、雑草は庭中に勢いよく伸びていた。大量に刈り取られた草を見て、本当に次の季節が来たのだなあと思う。

草を刈ったあとは、これまで草の中に潜んでいた毛虫など地を這う系の虫たちが大慌てで避難している様子や、丸見えになったそんな虫たちを狙って鳥たちが庭で興奮している様子が見られる。
そしてそれを涼しい家の中から見る我々人間。

さて、最近思ったこと。

「あれ、わたし本当は、そんなふうには思っていなかったみたい」
と、ふと気がつくことがある。
「そんなふうに」の内容とは、「悪く」とか「嫌だ」が当てはまる。
例えば、自分にとってとても身近な人や、強い影響力を持つ人が「Aという物事は最悪だ。嫌いだ。悪だ」と、心から、ことあるごとにわたしに言っていたとする。
するといつのまにか、その言葉を聞いている自分も、すっかりそのような気持ちになって、頭の中では「Aは悪いもの」に決定されている。Aを嫌悪し、関わることを恐れている。
でもあるとき、「ちょっと待てよ、本当にAを悪と思ってたんだっけ?」って自問自答してみると、別にそこまで悪いものだとは思っていなかったことを発見し、びっくりする。

いつのまにか、影響を受けていたんだなあ、と思う。
ご存知の通り、何かを憎んだり嫌ったりする感情というのは大変重く、居心地が悪い。
本当は持たなくても良かったそんな重い感情を、知らず知らずくっつけて生きてきたんだと知って、そのときから「Aという物事」に関する気持ちを正しいものに修正した。
今感じている、自分だけが判断した気持ちに。
こういう例がほかにもあるのだろうなあと思う。
気づくたびに修正して、心を軽くしていけたらいいなあと思う。

ネガティブな意見にたやすく支配されるときって、もともと、それ(ネガティブな意見)を潜在的に受け入れたいと思っている、しかしまだどっちつかずの、曇り空の色みたいな空白の部分が自分の中にあるときだろうと思う。
その空白が何で構成されているかというと、モヤモヤした気持ちや、「不審」や「恐れ」といった感情だと思う。
そこに、きっぱりした悪いイメージの言葉がやってくると、なんだか方向性や正当性が付加されたみたいな気持ちになって、「これだ!」って思って飛びついてしまうのだろうと思う。

ひとりで言うネガティブな言葉はちょっと心細い。
でも一緒に言ってくれる人がいると、すごく堂々と言える。

「気がついたらある物事を悪だと思い込んでいた」という状況になるまでの要因は、影響を与えた人の強い思考もあるけれど、「一緒に悪いと言ってもらいたい」と心のどこかで思っていた側の隙もあるのだろうな。



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