源氏物語、その他

もうすっかり冬です。それとは関係があるようなないような…。毎日何かしらの本を読んでいます。

今読んでいるのは、瀬戸内寂聴さん訳の「源氏物語」一巻。何人かの方が訳した本が色々と出ているようだったけれど、「読みやすい」「脚色が少ない」という理由から寂聴さん訳のものにしました。

久しぶりに買った講談社文庫。字が大きくて読みやすいな、とまず思ってしまったところに年齢を感じた。


肝心の本文は、分からない単語も時々出てくるし、「で、どうなったの?」という謎が回収されないままの場面があったりしつつも、何となくだらだら読めてしまうのは、やっぱり自分が日本人だからなのかなと思ってしまった。まあいいか、と思えてしまう。グレーもぼんやり飲み込んでしまう。

ぬるい温泉に入っているときみたいに、本当にだらだらだらだら読み続けられてしまう。意外にも眠る前に読むのにもよかった。光の君、たしかに美しいらしいし、すごく人気があるみたいだけれど、女性に対してちょっと無考えっていうか、ただただ無邪気に女性が好きで、本当にそれだけなんだなと思った。

まだ電気のない時代の日本の風景の描写が、いちいちたおやかで美しく、いいものだなあと思った。「物の怪」とか「前世の縁」とかいう言葉がしょっちゅう、当たり前のように台詞の中に出てきて会話が成立している。こういう豊かさもあるよな、と思った。


ちょっと前まで読んでいたのは「パークアベニューの妻たち」というノンフィクション。おお、こちらも講談社だった。単行本で、大きな本屋さんに行ったときにたまたま見つけて買ってしまった。

人類学者が見た、超お金持ちの地域に住む妻たちの生態について書かれた本だった。下世話な感じになることがなかったのは、著者があれこれと振り回されつつも、人類学者の目線から、その特異な環境を、観察し、レポートする、という意識を必ず最後には思い出しながら暮らしていたからだろうと思う。著者の人間臭さも含めて(途中ちょっと「パークアベニューの妻たち」風のいやな奴になってもいる。またかなしい出来事もあった)面白い本だった。「この本を買うぞ」と決めて乗り込む本屋さんも楽しいけれど、こんなふうに予期せぬ出会いをする喜びがあるのもまた本屋さんだ。


さて、先日うちの車のエンジンがいきなりかからなくなった。

仕事に行く日の朝だったので、大急ぎで支度して、家族は徒歩で職場に行った。あと五分エンジンをかけるのが遅かったら遅刻していただろう。お弁当を作っていたわたしも慌てた。

こんなふうに、いきなり動かなくなったものがうちにはいろいろある。冬にストーブが壊れたし、湯沸かし器が壊れたし、冷蔵庫も運転を止めたことがあったし(しかも晦日の前日)、パソコンも起動しなくなった。機械だけでなく、体にもいきなり異変は起きた。原因不明とされている疾患にかかり、それは手術をすれは完治するものだったので幸運だったけれど、原因がはっきりしていても、自分の身に覚えがない疾患にかかってそれがいつまでも治らなかったりもした。

本屋さんに行ったとき、たまたま棚にささっていた本の背表紙に「毎日毎日幸せだったら、果たして幸せって感じられるだろうか」みたいなタイトルが書いてある本があって、何となく目に留まった。こうして何日か経ってから、あれは本当にそうだな、と思ったりしている。

この寒い中、電気もとまらずストーブは安全に運転を続けていて、体のどこも痛くなく、何も心配せずにご飯を食べたり本を読んだり眠ったりできる幸せ。これってやっぱり、それらがいきなり奪われてしまった経験があるから感じることなんだろうなと思う。

アクシデントって本当に困る。でも一方では、のちに幸せを教えてくれるものに変わるものでもあるんだと思う。物事には何でも二面性があるというけれど、これもそうだ。


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