無事に新しい年を迎えられてほっとする。
11月にパソコンがついに壊れ、今回は修理ではなく買い替えることに。仕事で使っていた資料とか、「お気に入り」にしていたサイトのURLなんかもみんな消えてしまったのは残念なことだった。
その後、新しいパソコンを使い始めておよそ2か月。もういきなりシャットダウンする可能性にビクビクする必要もなくなり、さすがに操作にも慣れた。初めてノート型のパソコンを使っています。
さて、今年のお正月も、実家で家族と一緒に過ごすことができた。家族のリラックスした顔を見るのはうれしいものだ。
70才近い年齢なのにまだフルタイムの仕事を持ち、その上で家事をこなす母親には本当に頭が上がらない。
わたしだったらこんなに何もかもきちんとやれない、と思う。
彼女は幸いなことに大きな病気にかかったりはしていないけれど、時間を見つけてなるべく実家に帰って話を聞いたり、一緒にいるときは家事を手伝ってあげたいな、とあらためて思った。すごく痩せている人なので、体力のためにも何かちょっとでも多く食べてもらえたらいいと思う。「たくさん食べてね」と言っても食べないだろうけれど「一緒に食べよう」と言ったらつい食べてしまうかもしれない。
実家のある町は、北海道にあるというのにあまり雪が降らない。気温も、たとえば北海道の内陸部や北部のようにマイナス10℃台にまで冷え込むこともまずない。
でも大晦日の明け方から朝にかけてめずらしくまとまった量が(といっても10センチにも満たないくらいだったそうだけれど)降ったそうで、歩道には片づけられた雪が残り、車道は凍りついていた。たしかに気温も低く感じた。
元旦のお昼頃、実家から家に帰ってきた。中古本や中古CDを売るお店に3軒も寄り道しながら…。
でも天気もよく、気温も上がり、長いドライブになるので天候が落ち着いているのはありがたかった。お店では、常々狙っていた本を見つけて嬉しくなった。キャッキャしながら(内心)買う。
「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」は、晦日の夜に観た。
観るのは2度目。2時間50分近くもあったらしいけど今回もあまり長さは感じなかった。
何年か前に1度目にこの映画を観たあと、原作のスコット・フィッツジェラルドの短編小説を読んだ。今回も、映画を観たあとで本棚から出してきてまた読んでみた。老人として生まれ、赤ん坊として死ぬ、というところは同じだけれど、様々なところでかなり映画と小説とは違っている。
映画のほうは、かなりラブ・ストーリー寄りになっている。というか主人公と幼馴染デイジーのラブ・ストーリーが軸になっている。原作はラブ・ストーリーの要素はほとんどゼロに近い。デイジーも出てこないし、びっくりするくらい淡々と物語は進む。なるほど映画にするにはあちこちドラマティックにしないといけないものなんだな、と思った。
ちなみにこの「無から有へ、有から無へ」をくっきり描いた系の物語には、本当に弱い。
「レナードの朝」とか「レジェンド・オブ・フォール」のアンソニー・ホプキンスがやっているお父さんの役とか。そしてそれは「アルジャーノンに花束を」(小説版)にとどめをさす。アルジャーノンに花束をなんて、もう読みたくないですよ。かなしすぎて。
生き物の一生なんて、「生まれて、死ぬ」あるいは「弱く生まれ、強くなり、また弱る」ことに、せんじ詰めれば尽きるのだろうけれど、多分それの描きかた、取り上げかたによるんだろうなあと思う。「たしかにあったもの」の存在感が強ければ強いほど、そうでなくなったときのショックって大きい。生き物が生まれて死ぬ過程を追っていくのは大丈夫。つらいけれどもそれは自然なことだから。でも多分わたしは生き物の「消滅」ではなく「停止」に近い描かれかたをされるとだめなんだろうなと思う。うーん、うまく説明できないな。
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