hatoko hirama

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羽海野チカの世界展 札幌

今週はイベントがいくつかある、夏休みっぽい一週間。まずは大丸札幌店で行われた「羽海野チカの世界展」に行ってきた。「ハチミツとクローバー」の頃から大好きな羽海野チカ作品。世界展は、これまでも時々開催されていたのだけれど、それはみんな北海道以外の会場での開催で、いいなあ~とうらやましく思っていた。でもついに今年は札幌で開催!はやばやとローソンで前売り券も買って準備して、楽しみにしていた。世界展の中はもちろん撮影禁止なので、とにかく展示されていたものを目に焼き付けてきた。やっぱり原画、原画が素晴らしかった。商品化されたものを見ても分からない、本当に緻密で丁寧な仕事がそこにはあって、見ていて胸があつくなった。考え抜かれて配置された色彩と、ミリ単位の仕事の連続。「ここまでやるんだ」と思って、びっくりして、泣きそうになった。きっと細かく丁寧な仕事ぶりなんだろうなあ、と想像していたレベルの、もっと上を行ったところで作品は作られていた。点数は多くなかったものの、漫画の設計図、ネームと呼ばれる資料が見られたのも嬉しかった。会場には「感想ノート」みたいなものも置かれていて、すでに沢山の人たちがそこに感想を書き込んでいた。わたしも少しだけ感想を残した。本当に良いものを見た。ぼうっとしながらお昼ご飯を食べに行った。エネルギーがあっという間に満タンになったのが分かった。「ハチミツとクローバー」や「3月のライオン」を読んでちょっとでも心を動かされた人は、行ってみるといいと思います。8月15日までです。

変な海みたいなもの

昨日まで読んでいた本。ずーっと小説を読んでいるので、ちょっと違うジャンルのも読みたくなった。又吉さんの本「第2図書係補佐」は、おすすめの本を紹介するほか、子供の頃から若い時代の思い出話が書かれていた。恩田さんの「小説以外」はまさに「小説以外」の文章、他の作者の著書に書いた解説や短いエッセイなどがみっしりと収録されていた。楽しかった~。又吉さんのほうは、読みながらしんみりしたり笑えたり。特に「自意識過剰」の持て余しぶりが最高だった。ちなみに「コインロッカー・ベイビーズ」わたしも痺れた記憶があるけれど、近未来小説だとは少しも気付かなかった。普通に現在の話を書いているんだと思ってたな...。恩田さんのほうは、子供の頃からの凄まじい読書家ぶり、記憶力の良さ、著者の本格ミステリ小説への愛などに溢れていて、「それほど愛せるジャンルに出会えてよかったねえ」という清々しい気持ちになった。「第2図書係補佐」の終わりには、中村文則さんとの対談が載っていた。その中で、中村さんの発言の中に、「大量の本を読むと人間の中に何が起こるかと言うと、変な海みたいなものが出来上がる」っていうのがあって、おお~!と思った。確かにそんな気がする。本を読んで蓄積した言葉やイメージは、液体になって自分を包んでいる感じ、するする。上手いこと言うなあ、あと海の前に「変な」って形容詞がついてるところも大事だな~と、感心した。それからというもの、この「変な海」を思い出すたびすごく安心した気持ちになって、有り難い。

教師たち

宮崎駿さんの発言を収集、編集しているツイッターアカウントがあって、時々見ています。その中で、「子供がある肯定的なものに作品の中で出会ったときに、こんな人いないよとか、こんな先生いないよとか、こんな親はいないよって言っても、そのときに「いないよね」って一緒に言うんじゃなくて、「不幸にして君は出会ってないだけで、どこかにいるに違いない」って僕は思うんですよ」っていう文章を見つけて、深く頷いた。宮崎監督は、そのbot内の他の発言では、なかなか自己中心的だったり、狭量なものの考え方をしていたり、別に「良い人」ってわけでもなさそうなところが逆に面白くて好きなのだけれど、でもこの発言は(本人非公式の、編集されたものであることを踏まえても)、いいこというなあと、思った。わたし自身は、子供時代を本当に無考えに、日々お気楽に生きていたせいか、学校にも、教師たちにも、深い恨みとか強い不快感とか失望とかを、おそらく持ったことのないまま成長した。個性的な先生はいたし、ちょっと尊敬することはできないな、と思う先生も、正直言ってがっかりさせられた先生もいた。でもそんな彼らと共に過ごしたこれまでに通ったどの学校も、総じて楽しかったという記憶が残っている。わたしの知り合いには、教師に対して深い嫌悪感情を未だに生々しく持っている人もいる。その教師に嫌悪感情を持つに至った理由を聞くと、納得できるものだったりもして、気の毒な目に遭ったんだな、心を傷つけられたのだな...と思って気の毒に思う。そしてその知り合いは、「世の中には良い先生というものが存在する」ということを、本当には信じていない。「教師たちというのは、基本的に嫌なやつらだ」と思っている。「教師たちの中にも、良い先生となってくれた人もいるよ」と言っても、それは特別な人が特別な体験として、たまたま経験した「運のよいこと」だと解釈していることが伝わってくる。いろいろな性格の大人がいるように、いろいろな性格の子供がいるのだろう。同じことが起きても、個人によって受け取りかたは全く異なる。わたしの子供時代のように、早熟で自立心は旺盛でも、救いがたいほど脳天気な性格だった子供は、大体誰と遭遇してもあまり気にならないだろうし、敏感で繊細な子供は、大人の欺瞞や嘘にいち早く気がついて、きっと深く傷ついたり、不信感を持ったりしただろう。また、物事を、どっちの面からまず見る性格か、というのもあるんだろうなと思う。何かが起こったとき、自分にとってポジティブな面から見るか、ネガティブな面から見るか。それのどちらがより深く印象に残る性格なのかという違いも。どちらの性格が良い悪いという話ではもちろんなくて、どんな性格の子供たちにも、それぞれの性格だからこそ受け取れるギフトはちゃんと用意されていると思う。わたしが願うのは、子供のころ、学校で良い教師に恵まれなかったし、良い教師というものが存在するなんてやっぱり信じられない、という大人が、今や未来の日常生活の中で、よい先生たちに出会えたらいいなということ。何かの専門家として知恵や技術を教えてくれる先生もいれば、教えてくれているつもりはないだろうけれど、体全体で何かを教えてくれている人もいる。「教師」って、本当にいろんな姿かたちをしている。彼らはたとえば繁華街の飲み屋にもいたし、地下鉄のホームにいたおばあさんであったこともあったし、一時期一緒に楽しく過ごした友人であったりもした。よその家の飼い猫や、早朝に現れた一匹の蜘蛛であったこともあった。自分が解放されたかったある辛いことからついに解放されたときの、一番の尽力者が「苦手だった人」や「名前以外のことはよく知らない人」だったこともあった。学校という場所では良い教師に恵まれなかったとしても、別のどこかで良い教師に出会える可能性はごろごろある。そういう意味では、わたしなんか年がら年中、教師としか会っていないみたいなものだ。「よくこんなに教わることがあるな」というくらい、教えてもらうことばかりの毎日だ。ツイッターの文面に戻るけれど、「良い教師や良い大人なんていない」って思っている子供に対して、「不幸にして君は出会ってないだけで、どこかにいるに違いない」って言える大人が増えることが、沢山の子供の心を助けることになるんだろうなと思う。「そうだ、いないよ」と言われたら「もうおしまい」という気持ちになるけれど、「まだ出会っていないだけなんだ」と言われれば希望は残る。そしてそれは嘘じゃない。「良い教師」はこの世界に絶対にいるもの。「不幸にして君は出会ってないだけで、どこかにいるに違いない」と子供に言った大人こそが、その子供にとっての最初の「良い教師」になるかもしれないし。中には学校の教師から、魂の虐待に当たるような、日常生活をそれ以降普通に送れなくなるような、ひどい扱いを受けた場合もあるだろう。そういうケースにも、わたしがここで書いた考えが、当てはまるかどうかは分からない。でも実際に、良い教師に出会った経験がある大人として子供たちに言えることがあるし、それが役に立てたらいいと思う。わたしの古くからの友人にも、教育者として日々子供たちに接している人たちがいる。ツイッターを読んで、彼らのことを思い出した。彼らも人間だし、教師という仕事にも大変な側面は沢山あるだろう。それでもわたしが知っている彼らはきっと、子供の心にきちんと寄り添って、つとめを果たしているんだろうなと思う。彼らの子供時代を見ているから、すごく安心してそう思っている。

夏みたい

気になっていた、庭の草刈りをした。それにしても暑い日だった! よく晴れていたし、気温も高かった。5月なのに夏みたいな日だった。草刈り機でブーンと刈ってもらった草を、集めて捨てるのがわたしの仕事。これまでずっと、写真左のミニ熊手を使っていたのだけれど、「熊手には大きいのもあって、使いやすいみたいだよ」と教えてもらって、右側にある大きいのを買った。なるほど使いやすい。腰をかがめなくて良いのが最大の利点。しばらく雨が続いたあとに、晴天と高温の日が続いたので、雑草は庭中に勢いよく伸びていた。大量に刈り取られた草を見て、本当に次の季節が来たのだなあと思う。草を刈ったあとは、これまで草の中に潜んでいた毛虫など地を這う系の虫たちが大慌てで避難している様子や、丸見えになったそんな虫たちを狙って鳥たちが庭で興奮している様子が見られる。そしてそれを涼しい家の中から見る我々人間。さて、最近思ったこと。「あれ、わたし本当は、そんなふうには思っていなかったみたい」と、ふと気がつくことがある。「そんなふうに」の内容とは、「悪く」とか「嫌だ」が当てはまる。例えば、自分にとってとても身近な人や、強い影響力を持つ人が「Aという物事は最悪だ。嫌いだ。悪だ」と、心から、ことあるごとにわたしに言っていたとする。するといつのまにか、その言葉を聞いている自分も、すっかりそのような気持ちになって、頭の中では「Aは悪いもの」に決定されている。Aを嫌悪し、関わることを恐れている。でもあるとき、「ちょっと待てよ、本当にAを悪と思ってたんだっけ?」って自問自答してみると、別にそこまで悪いものだとは思っていなかったことを発見し、びっくりする。いつのまにか、影響を受けていたんだなあ、と思う。ご存知の通り、何かを憎んだり嫌ったりする感情というのは大変重く、居心地が悪い。本当は持たなくても良かったそんな重い感情を、知らず知らずくっつけて生きてきたんだと知って、そのときから「Aという物事」に関する気持ちを正しいものに修正した。今感じている、自分だけが判断した気持ちに。こういう例がほかにもあるのだろうなあと思う。気づくたびに修正して、心を軽くしていけたらいいなあと思う。ネガティブな意見にたやすく支配されるときって、もともと、それ(ネガティブな意見)を潜在的に受け入れたいと思っている、しかしまだどっちつかずの、曇り空の色みたいな空白の部分が自分の中にあるときだろうと思う。その空白が何で構成されているかというと、モヤモヤした気持ちや、「不審」や「恐れ」といった感情だと思う。そこに、きっぱりした悪いイメージの言葉がやってくると、なんだか方向性や正当性が付加されたみたいな気持ちになって、「これだ!」って思って飛びついてしまうのだろうと思う。ひとりで言うネガティブな言葉はちょっと心細い。でも一緒に言ってくれる人がいると、すごく堂々と言える。「気がついたらある物事を悪だと思い込んでいた」という状況になるまでの要因は、影響を与えた人の強い思考もあるけれど、「一緒に悪いと言ってもらいたい」と心のどこかで思っていた側の隙もあるのだろうな。